歴史上人物として名高い福沢諭吉

福沢諭吉とは、昭和59年から日本銀行券一万円紙幣の表面の肖像に採用されている人物である。たくさんの著作があり、主に学問のすすめや西洋事情、文明論之概略などは学校で習う著作となっている。

福沢諭吉が明治時代に、服装や食べ物、建築について、西洋文化が日本中に広めた。日本の暮らしが大きくかわった。

そのなかで、学問の大切さを日本に広めようとした。そこで、代表作の学問のすすめを書いたのだ。そこで、天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らずや一身独立して一国独立すると説いている。

人間はみな平等であり、それぞれの国民が自立してこそ、国は独り立ちすると考えていたそうだ。なので、学問でさまざまな知識を身に付けることが重要であるとうったえたのだ。

福沢諭吉はいろんな国を見て回った。アメリカやヨーロッパ、イギリスなど、さまざまな国を巡ったのだ。

イギリスの議会を見学したときに、対立する二つの政党が政治のことで喧嘩をしているのに、議会が終わると同じテーブルで酒を酌み交わし、食事をしているのだ。そこで福沢諭吉は、議会で自分の考えをぶつけ、喧嘩をしても議論が終われば仲間として接している様子を見て、意見の異なる人たちを尊重する精神を学んだそうだ。

自分の目で見た西洋の様子を10巻にわたり、詳しく書いた。そこでは、西洋の政治や議会、国の基本になる仕組みなどが書いてあり、学校や新聞、病院などで西洋のさまざまな文化を紹介しています。これが西洋事情です。

たくさん西洋に行っていた福沢諭吉ですが、英語は独学で勉強した。西洋文化を理解するには英語を学ぶことが大切だと思い、いち早く英語を勉強したのが福沢諭吉とされている。大阪で蘭学を緒方洪庵に学び、現在の慶応義塾を開設したそうだ。

当時の日本人としてはかなり大柄な人物だったそうだ。身長173センチ、体重70.2キロだったそうだ。五人兄弟の末っ子として誕生した。

父が大阪に勤務していたので、大阪で生まれたのだが、一歳のときに父が死去したため、一家総出で中津藩に帰参した。母子家庭で厳しくはなかったが、三味線や芝居見物などは暗黙の了解で厳禁だった。

兄弟はとても仲が良かったが、中津藩では方言が違うのでうまく対応できず、友人が少なかったそうだ。

読書が大嫌いだったが14歳ごろから目覚め始め、塾に通って猛勉強を始める。気に入ったものは11回も読み返し、面白いところは暗記していたそうだ。